【三鉄全線復旧へ!!被災地の地域再生を先導し走る】
待ちに待った日が来た!!
三陸鉄道は今日5日に南リアス線、明日6日に北リアス線がそれぞれ完全復活しました。
(参考;岩手日報号外 http://www.iwate-np.co.jp/PDF/2014/santetu20140405.pdf)
(参考;岩手日報号外 http://www.iwate-np.co.jp/PDF/2014/santetu20140405.pdf)
思えば、「旧 三陸縦貫鉄道」は、当時の旧国の赤字ローカル線に指定され、レールは錆びつたまま放置された経緯があります。
それを岩手県や沿線市町村が全国初の第三セクターとして発足して、鉄道として「昭和59年に悲願の鉄路」で営業を初めた鉄道でなのです。
それまで、宮古市まで船で行くことが多かったし、我が田野畑村は「陸の孤島」といわれて続けて来たのです。
それが、鉄路で全国につながったのです。あの時、僕は役場職員で開業イベントの担当として涙が出ました。今も鮮明にその記憶は残っています。住民の老人から若者ものまで、みんながバンザイの歓声と共に喜び、涙を共に流した事が昨日のように蘇って来ます。ホントに感無量でした。
↓↓震災前の島越駅
しかし、2011年3月11日、東日本大震災発生。
目の前の三鉄の駅も高架橋もなくなって消えていました。鉄路は無残にも、垂れ下がって津波の力を見せつていました。
本当に無残であったし、田野畑村島越の集落の真ん中を横断する周囲の家々は全くなくなっていたのです。
写真撮影していて、僕の目から涙出るかと思ったら、その涙もでないほど悲しかったし、辛かったのろうと今はそう思えます。
三鉄の島越駅の近にあった、自分の実家に行って見たら、家の基礎だけが残り、何もなくなっていました。亡くなった親父の植えた、ヤマツツジにがれきの網がぶら下がっていました。
そこは、子供の頃から色々な思い出のある地であったのです。ヤンチャもしたり、子供でも親の手伝い作業をしたりしました。僕の家にには人が集まる家であり、近所の子供達と一緒に風呂に入ったり、チャンバラ、陣取り合戦したり、関係リ、かくれんぼ、した場所だったのです。兄弟6人でケンカしたり遊んだ場所でありました。
自分の過去がなくなり、消え失せた感じなりました。
あの時、あの悲惨な光景を目にした三鉄の行く末を案じたは被災者は少なくなかったと思うし、僕も、ホントに夢の中にいよな感じで愕然としました・・。
海抜28メートルの改札口では、津波を見ていた人も6人ほど亡くなっています。まさか、ここまで津波がくるとは思わなかったのでしょう。 そういう悲しみの場所もあるのです。
でも、3年以上経過して「三鉄は不死鳥」のごとくよみがえりました。
今ここに、被災地復興のシンボルとなって羽ばたいたのです。
今ここに、被災地復興のシンボルとなって羽ばたいたのです。
復活できた大きな理由は、いち早い決断と実行だったと思います。
それは住民の強い支持が国の支援につながり、クエートを初め世界中から多額の寄付も寄せられ応援の輪を全国に広げていったのです。
思い起こせば、震災直後の5日後には一部区間で運転を再開しました。しかも、しばらくの間は運賃無料で住民の復旧活動を支えたのは地元鉄道としての使命があったからこそだと思います。あの三鉄マンの姿には、みんなが勇気づけられ、希望を持ったのです。
三鉄の車両が瓦礫に中を走る勇姿は、何者にも代えがたい希望があったと僕は感じていました。とにかく、「前に走る」、「何がなんでも前に進む」そんな三鉄カラーの車両は、多くの被災者を前向きにさせたと今もおもっています。今までありがとう。そして、これからもよろしくと三鉄に僕は言いたいのです。
復旧費は108億円を見込んだが、91億円に縮減。
17億円分の削減にはさまざまな要素があります。
まず、もたもたせずに国が復旧を決めた事。早期決断の効果です。資材や人件費が高騰する前に契約し着手できた事は2割は、安くすんだと言えます。
そして被害を受けながらの沿線の地元の協力による負担の軽減も大きな決断でした。
更に瓦礫が線路をふさいだが、市町村が一帯の作業に合わせて撤去を引き受けてくれたこと、また県の要請で自衛隊も協力してくれたことも大きなことです。
しして、工事業者の協力もあったのも忘れてはならないことです。
ある工区ではゼネコンが利益を度外視して、復旧にあたってくれたことです。
聞くと、これは「昭和59年の三鉄開業時」に担当した箇所だからという理由うでやってくれたのです。
まさに、「われらの三鉄」はこの関係業者の「心意気」によるものです。
「三鉄」自体も、とても感謝しいたし、利用する、われわれも感謝しているのです。
その間、収入確保に奔走しました。旅行業部門が「被災地フロントライン研修」と銘打って議会や防災関係者、研究者らを誘客しました。
また、観光面ではNHKのドラマ「あまちゃん」による追い風が吹もふきました。また、大手観光エージェントも、「被災地視察の旅行企画」も大きな力となったと言えると思います。
また、観光面ではNHKのドラマ「あまちゃん」による追い風が吹もふきました。また、大手観光エージェントも、「被災地視察の旅行企画」も大きな力となったと言えると思います。
しかし、とはいえ、この先視界が良好なわけではないのは分かっています。
津波により、鉄路周辺から、高台移転などで、住民が消えている駅が少なくないのです。
2014年度の事業計画は乗客数目標を震災前の水準に近づく83万人としたのですが、「かなり厳しい目標」(望月正彦社長)だと厳しい顔で話しています。
全国的な注目を生かし、様々な創意工夫をして、一層の誘客を図ってもらいたいものです。
北、南の両リアス線に挟まれたJR山田線宮古-釜石間の問題もあります。
JRは三鉄への移管を提案しており、自治体と三鉄は、経営面と住民の利便性を踏まえて判断することになるります。JRは、この震災のどさくさに紛れて、赤字路線を手放したいのは透けてみえます。これは、まだ不透明ですが、少し公益性から考えれば、自分としては異論を言いたいところではあります。
三鉄は被災地の地域に欠かせない存在であることに番うはありません
震災を経て高まった「マイレール意識」で積極的に利用したいものです。
経営を支えるためには、駅を中心とした機能集約の魅力ある街づくりも重要な要素になるとおもいます。
観光を踏まえた三陸の路線として行くことが大きな課題でもあるでしょう。
三陸鉄道は、丁度この4月で「開業から30年を迎えた」ことになります
全線復旧を新たな出発点として、地域のために力強く走り続けてほしいと祈るような気持ちです。
これからも、「おらが鉄道」として、利用促進し僕も利用します。
当面はノッペラとした光景に被災地を走る事にまりますが・・。
当面はノッペラとした光景に被災地を走る事にまりますが・・。
これは蛇足かもしれませんが・・。
復興の進まない、三陸沿岸を是非全国の方々に自分の目で見て欲しいと・・。
今の自分の住んでる日本を考える旅にしてほしいと。
なんでこんなに、同じ国なのに何故なのか・・?
今の永田町の政治は、官僚の行政とはなんなのか・・・?必ず、自分の生活に振り返って来るものです。
三鉄にのって、被災地の大地、海を見れば、必ずその疑問を抱くはずです。
そして、考える機会となると僕は自信を持っていいます。
そして、考える機会となると僕は自信を持っていいます。
とにかく、「三陸鉄道」はめでたく、全線開通しました。
多くの地球の方々に心ある方々のご支援のお陰です。
多くの地球の方々に心ある方々のご支援のお陰です。
これからも全国からの大きなエール。
「三陸鉄道」のご利用を切にお願い次第です。