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Channel: 山と土と樹を好きな漁師 ー「佐々木公哉のブログ」
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「311アーカイブス(その1)」ー 【広報の友は仮設で孤独死していた。 田老の彼は、残念ながら57歳で4年前に亡くなった。仮設住宅の孤独死だった】

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「311アーカイブス(その1)」ー
【広報の友は仮設で孤独死していた。 田老の彼は、残念ながら57歳で4年前に亡くなった。仮設住宅の孤独死だった】

~ 被災3県、仮設住宅からの791人退去めど立たず ~
もうすぐ、東日本大震災からまる7年になる。
この7年。あまりに色々な事がありすぎたし、生業の漁師も大不漁でなかなか、うまくいかない。 だから、震災以降ずっと、「将来の「不安」と「焦り」があり、大きなストレスとなり続けている」のが正直なところなのだ。
 中には、「漠然としたストレス」と表現する人もいるが、私はそうでないと思っている。
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ストレスの原因はハッキリしてる。「貧乏になった」からだ。
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震災丸裸になり、全ての財産を失って「貧乏になり、そこからなかなか抜け出せない」それこそが、ストレスの原因なのだ
 自宅再建、なりわい再建の船や漁具などなど、震災前の負債と合わせたダブル負債返済はこれからなのだ。
「お金の苦」ー。なかなかストレートに言えないが。現実はお金が稼げない苦なのだ。 毎月、毎年の返済日がある度に、何とか工面して来た苦労の連続だった。 「人生は金だけではない」などという人がいるが、それは、お金に余裕がありから言えることであって、 我々にはそんな、きれいごとではないのだ。 
【震災以降、ほんとに多くの死者が出て、この7年は異常に多い葬儀参列。中でも友人の死はとても、虚しく、無残な死だった】
イメージ 3 私は、若い時は元地方公務員だった。この小さな生まれた場所の村役場に入ったのは、22歳だった。 27歳の時に「広聴広報」と「企画」を一人で担当させられた。それは、「広聴が事業企画に直結して「総合開発計など」の立案に活かされると」いう村長独断の人事だった。
 だが、小さい村であっても、行う仕事の量は人口が多くてもほぼ同じなであり、非常に劣悪な労働状況だった。 残業は月に100時間を超えていた。
 そのレバルは、休日なしで、毎日、深夜12時近くまで働くという日課で100時間になる。残業代は一人給与の8%打ち切りだから、サービス残業だった。 ついにそれは、心の病(うつ病)⇨(アルコール依存症)で退職する35歳まで劣悪労働の環境は同じだった。

【さて、広報をやっていると、近隣市町村の、広報担当者と仲が良くなる。退職後も震災後もあっていた友人が田老にいた】
 その田老の彼は、残念ながら58歳で4年前に亡くなったのだ。独身だった彼は、仮設住宅の孤独死だった。
 非常にショックだった。 彼の生活を見ていて、「まずいなあ。」と思っていたが、その知人から訃報を知らせる電話は予感が的中したのだ。
現役当時も酒すきだったが、どうやらお酒が原因だった。
そう、仮設で多い「PTSD」、「うつ病」に継ぐ多い、「アルコール依存症」だったのだ。
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【震災後に会ったのは2012年夏だった。痩せて、アルコールの匂いが体内からプンプンだった】
イメージ 5 彼は震災から1年が過ぎた3月末に早期退職し、独りで仮設住宅にこもるようになっていた。合ったときも「いつも、体内からアルコールの匂いがしていた」し、殆ど外にでない生活で、部屋には酒の空のボトルがゴロゴロしていて沢山あった。 何も食べないで飲むために、とても痩せていたし、精気など無かった。自分も「アルコール依存症」なので、すぐに、同じ病気だと分かったのだ。
 病院に連れて行こうと、何度も説得したが、「アルコール依存症」は「否認の病気」ともいわれ、自分が「アルコール依存症」あることを認めないのが特徴なのだ。 自分の体験を話し「アルコール症の専門病棟のある精神科病院」に連れて行こうと何度も、説得したがテコでも動かない。 しかし、首に縄をつけて無理くり連れていくわけにはいかない。仕方がなく、帰りには、大きな仮設団地の診療所によって、保健師さんには、その旨を話すのが、私の出来るの最善の策だったが、今になれば・・。力づくでも連れていくべきだと反省している。もしかしたら、回復出来たかも知れない。

【彼が務める、宮古市の田老総合事務所(旧田老町役場)へ最初に彼を訪ねて行ったのは、東日本大震災の年の年の瀬だった】
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 合併前の町役場時代、広報担当として活躍した彼は、「津波防災の町で視察が来るほど田老町」だった。2重の防潮堤があり、山への避難路。そして、「語り部などで」その風化防止に力を入れていた「津波防災の町を宣言した田老」は世界的に有名だったのだ。 彼は、このため、いつも広報誌でも「津波田老」のコナーを作り、体験者の声を毎月掲載し、決まって、年に2回の特集は津波に関するものだった。
 だから、彼は、田老町は過去に、全滅に近い被害を受けた昭和8年(1933)、明治29年(1896)をはじめ、それ以前からずっと津波との闘いを宿命づけられてきた田老の歴史に精通していた。
 少し取っつきにくい雰囲気はあったが、津波について私も多くの爺さん、婆さん。おじさん等を無くしてるので、津波は研究していたし、直木賞作家の吉村昭氏は、我が村の名誉村民で、「三陸大津波」の著者だったこともあり、広報誌でやはり津波は、欠かせない記事企画においていた。
 ある意味、彼も自分も、この地で生きてきた者の宿命として、「津波を伝える義務」があると思う共通点はあったのだ。

【彼の夢は、長年コツコツと調べてきた「田老と津波の歴史」を、いずれ本にまとめることだったのだ】
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 だが、大防潮堤を乗り越えて町を襲った「平成の大津波」に、新築したばかりの自宅も、これまで集めてきた史料や書きかけの原稿もすべて流され、希望を失い、結果として、あの狭いプレハブの1Kの仮設暮らしを強いられていたのだ。
 町では防潮堤を14.7mに増強する計画とともに、住宅を高台へ移転する話が進みつつあった中で。
彼はあくまで個人的な意見と断ったうえで、こんなことを言った。
「高台の土地を取得・造成し、家を建てるには5年以上かかるでしょう。仮設住宅には今、1000人以上の人が住んでいるが、5割近くが65歳以上だ。私の両親は88歳と84歳で、冷たい風の吹きつける山あいの環境にまだ慣れない。 そういう人たちが高台の整備を待てるのだ。 私は、仮設から葬式は出したくないなあ。」と・・。
 表情に生気がなかった。こうした、行政の政策と自分の考え方が違うため、そして、「津波歴史書」の本を書くために退職したのに、こうしたジレンマが一向に筆が進まない様子だった。
 「酒を飲んでも眠れず、昼夜逆転の生活になった」と力なく笑っていた。その時の顔が今でも鮮明に覚えてる最後の顔である。
 同じ仮設の別棟に住む両親を、「病院や自宅跡に作った菜園に車で送り迎えするだけが数少ない外出だ」といっていた。
新築したばかりの負債返済があり、生活再建の目途などまったく立っていなかった。
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 そして、「海に近い元の場所に家を建てたいけど、危険区域に指定されて、できなくなった。高台移転の話が進んでるけど、そこには住みたくねえ。今は様子見だ」と語っていたが、殆どの人は同じ意見であったのだ。
 特に、漁師をなりわいとしてる人は、浜に近い、船や倉庫が海に近い方が仕事がやりやすい。
 しかし、そんなことはまったく意見も聞かずに、一方的に政府の国土交通省は「津波危険地域」指定して、「ここに住んではならない」としたのだ。
賛否は別として、せめて、そこに住む住民の声も聴いてほしかったのだ。そこは、同じ意見で共感していた。自分の土地である宅地や畑が国によって、勝手に決められる。違和感を感じないほうがどうかしている。
 
【後にわかったところによれば彼は、死後3日、死因は「アルコール依存症」による、急性心臓死とのことだった】
「東日本大震災の現状と防災を医療で考える」という専門家のシンポジウムがあり、「災害とアルコール依存症」というテーマの分化会に、自分も体験談をということで、和歌山県まで行ってきたが、この震災で、問題になったのは報道されていないが、やはり、アルコール依存症とうつ病の対策だったのだ。
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私は、2016年まで、毎日『被災者の生の声として現状』をFBでも、ブログで綴っていた。
 しかし、自分自身もPTSDもあり、辛いこともあり、また、震災への反応は殆どなくなり投稿の「意味がない」と思った。私自身も「風化に負けた」事になる。 
 だが、震災直後から、国会を見て、当時、野党だった自民党に怒りを感じていた。何せ、民主党政権の復興策に全て反対し「解散」ばかりを言っていた。
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アーカイブス 3.11ーー
私はこれが、下記の記事のようなことがあり、しれがキッカケで決定的に「反自民になりました
何故そうなったのか? 多くの被災者も同じような感じではなでしょうか? 
その震災から約3ヶ月経過した時のブログ記事を再掲します。

被災者の多くが反自民になったのはこのような、当時野党自民党と公明党の政治家や国会への対応にあったのです。
【私が何故、「反自民」になったか。東日本大震災直後の野党自民党の国会対応が、非常に酷かったからだ 非人道的な、野党自民党の政治家たちだった】
もう、忘れた方もいるでしょうが、私ら被災者は絶対に忘れることができないのです。

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アーカイブス 3.11ーー

「被災地の生の声」 非人道的な、国会議員、特に野党自民党のみなさんへ。復興関係の予算、法案に全て反対。一刻も早く被災地に来て、見て、現実を知ってください。

2011/6/10(金) 午前 6:07
https://blogs.yahoo.co.jp/sasaootako/60677079.html
国家の大災害の緊急事態の時に、国会は与党も野党もないはずです。 宮城県東松島市の指定避難所を襲った津波の犠牲者(2011年3月17日)

国会議員の政治家の
あなた方は何んのため政治家になったのですか・・?
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被災地の現場の混乱など無視してる。あの頃は、遺体が異臭をはない、遺族が見つからず、やむを得ず「土葬」をしていた頃である
▼ 自衛隊員 止むを得ず、土蔵埋蔵する遺体。 岩手県・大槌町
 
そのご、解散総選挙が行われ、自民党の安倍現政権になったが、被災者軽視で嘘ばかりいうので、被災者をバカにしてると強く感じた。その言動に怒りを覚えたのは鮮明に覚えている。私はこのことがあり、「反自民 反安倍政権」となったのである。 だから、昨年からは、反安倍政権を主題におく、投稿の記事になったのである。
 しかし、次の11日の日曜日は、東日本大震災から7年である。節目の時でもある。
 せめて、月命日までの前後までは、この7年をアーカイブスして、投稿して見ることにする。これが、1回目の記事だ。
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【東日本大震災の被害に遭った岩手、宮城、福島3県で、プレハブ仮設住宅の解消が遅れている】
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201803/CK2018030102000163.html
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 共同通信の集計によれば、仮設暮らしの間に病気などで最期を迎え、本格的な暮らし再建に踏み出せなかった被災者は、判明分だけで累計1613人に上る。約半数の759人は福島で、東京電力福島第1原発事故の深刻さを示した。
 被害が大きい3県沿岸部の39市町村を対象に1月、調査した。各市町村は、亡くなった理由を詳細には把握していないが(1)居室で病死 
(2)体調を崩して入院先で死亡
(3)入居中に「不安」などストレスが原因と思われる自殺 
(4)不慮の事故で死亡―などのケースがある。
ーー以下略ーー

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