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Channel: 山と土と樹を好きな漁師 ー「佐々木公哉のブログ」
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「東日本大震災から6年」ー 【あの日あったこと、明かせずにいた思い。6年がたつ今だからこそ、記憶が薄れる前に、伝えたい「あの日」を振り返り、明日への教訓に】

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「東日本大震災から6年」ー
【あの日あったこと、明かせずにいた思い。6年がたつ今だからこそ、記憶が薄れる前に、伝えたい「あの日」を振り返り、明日への教訓に】
6年前の2011年3月11日。あの日はとても寒くて、沿岸には雪が降り積もっていた。
震災から月日が流れた。あの日あったこと、明かせずにいた思い。6年がたつ今だからこそ、記憶が薄れる前に、伝えたい「あの日」を振り返り、明日へつなげよう。
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【「報道されなかった現実」折角津波で助かっても濡れた身体で「低体温症」で非難した山の中で亡くなった方も沢山いる】
被災者にとってあの日の寒さは忘れられない大きな事になっている。3月11日といえば、海の海水温度が一番低い頃で、4℃程度だったはずである。
 あまり知られていませんが、津波の水に浸かって、助かったが着の身着のままで逃げてるために何にもない。山の中で、一晩何とか「低体温症」になりながらも、次の何とか避難所に辿り着いた人もいたが、高齢者などは「低体温症」となり、折角津波で助かっても濡れた身体で何もない状況の中で
亡くなった方も沢山いる。

【「明治29年三陸大海嘯」そして、「昭和8年の津波」での母の体験を聴いて育った自分。東日本大震災は7日前に三陸沿岸市町村では、津波訓練が行われていた】
 過去の津波のことでも、同じ事があった。
 昭和8年の津波は3月3日の深夜であった。僕はこの津波で叔母さんや叔父さんなどを亡くしている。この時の惨状は母から聴いて知っている。
 
 
クリックすると新しいウィンドウで開きます母から聴いてる昭和8年の津波については、子供時から母や父に聴いて僕は育ちました。
 母は当時を「12歳、その夜は、ひな祭りで私達姉妹5人はひな祭りの節句を行い、両親もお酒を飲んで普段よりは遅くまで起きていた。しかし、深夜に大きな地震があり、村中で「津波がくるぞ~~!」とう大きな声が響きわたり、皆が競って寒い雪山に向かい、真っ暗でしかも、雪があるために、山を昇るのが大変だったが母たちは兄弟と父は自宅の裏山に逃げて助かったが、母親の姿がなかった」という。後に、「自宅から5キロほど離れた海岸で遺体が見つかった」
という話を何度も聴いて育った自分である。
 三陸沿岸では、それまでは「明治29年の大津波」6月15日午後7時32分発生(震源が岩手県沖であったために、津波到達が早く、観測史上最高の遡上高だった海抜38.2mの高さは、東日本大震災津波よりも大きな津波。
昭和8年までは、6月15日その日を津波記念日として避難訓練など行っていたようだが、昭和8年の津波は後は3月3日が津波記念日となっていた。
【年に2回は、津波避難訓練は行政が主体で行っていた三陸沿岸市町村。】
毎年、3月3日と9月1日には防災訓練と合わせて「津波非難訓練」が行われていました。これは、岩手県沿岸どこの市町村でも共通してることです。
だから東日本大震災の、この年も震災の7日前に三陸沿岸市町村では、津波訓練が行われているのである。

【東日本大震災はM9.0と地震が大きく津波も北海道から静岡まで観測。 防災情報システムが破壊され、連絡網の電話などライフラインがやられた】
画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外 
 三陸沿岸では、過去のこうした経験があり岩手、宮城などは防災計画で整備されていたのです。

しかし、想定外の大きな地震でまずやられて、津波で全てが、外部への通信機器全てがダウンしたのです。非常時に県と市町村を結ぶ県総合防災情報システムも使用不能になった。
 だから、最新技術で整備しても、まず、こうしたライン。道路などが壊れるために、初めから防災計画の「津波への対応マニュアル」が全く役にたたなかったのです。
 新潟地震で、東日本大震災のたった3ヶ月前にできていた、福島第一原発には、「免震重要棟」があったので、本店と政府との連絡が出来て、あの程度で事故は収まったのですが、津波には無防備だったのです。
だから、結局は、世界最大の原発事故にもなったわけで、想定外のことが起きるのが災害なのです。

 岩手では、大槌町では役場自体が流されて町長以下職員が25名もの役場の職員が亡くなり、 その後の災害復旧もままならないほどの被害を受けてしまっている。だから、「戸籍」「住民基本台帳システム」が無くなり、後に避難所での名前、死者の確認に手間取ったのです。
 山田町もやはり、
住民基本台帳システム」が地震でダウンしてます。
宮城県でも、同じことが起きていたのです。
画像に含まれている可能性があるもの:屋外
東日本大震災の特徴は、「範囲が広くて、なかなか連絡も取れずに、自衛隊員や警察の消防、医療スタッフなどの到着が遅くなった事にあります。

従って、下記の河北新報の記事のような、宮城県と同じ事が岩手や、福島でも起きていたのです。

こうした、共通した事例が沢山あるのです。
家の村では、「生存率が急激に低下するとされる発生72時間」までに、自衛隊員や警察の消防、医療スタッフなどの救命組織はきていません。
自衛隊が入ったのは、なんと1週間後なのです。
小さな村では、そういうことがあった事を知って欲しいと思うのです。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、座ってる(複数の人)、靴、屋外

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外

とかに、地震、津波は突然起きます。

だから日頃から、「自分の命は自分で守るための行動」をいろいろな事を想定して、実際に自分なりに行動訓練することが、自分を守る唯一の方法だと感じます。

【都市直下地震や東南海地震などが、叫ばれていますがもう6年経過したら、それも騒がなくなりました。】
しかし、必ず起きるのです。
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 その時に、「自分の命は自分で守るための行動」は自分自身にかかっています。

いろいろな事を自分で想定して、訓練しておくことが重要なことだと強く感じます。
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【<3.11明日への証言>届かぬ惨状 職員も混乱】
河北新報  2017年3月7日
http://www.kahoku.co.jp/special/spe1062/20170307_07.html

震災から月日が流れた。あの日あったこと、明かせずにいた思い。6年がたつ今だからこそ、記憶が薄れる前に、伝えたい「あの日」を振り返り、明日へつなげよう。
 宮城県山元町役場は東日本大震災発生時、外部への通信機器全てがダウンした。非常時に県と市町村を結ぶ県総合防災情報システムも使用不能に。津波で町の4割が浸水し、激しい余震で庁舎が使えなくなった。県職員が役場に駆け付け、町の詳しい情報が県に伝わったのは、震災3日後だった。
▼避難所となった中央公民館前で震災当時を振り返る岩佐さん。奥はプレハブの町役場仮庁舎=宮城県山元町
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自動代替テキストはありません。
◎震災6年(3)通信手段失った町役場(宮城県山元町)
<車で直接出向く>
 「毛布1枚でもお願いします」。震災2日後の2011年3月13日。当時の副町長平間英博さん(59)=現在宮城県職員に復帰=は、町職員と2人で町役場から約10キロ西の角田市役所に駆け込み、必死に訴えた。
 住民637人が犠牲になった町には、この時点で安否不明者が多数いた。避難所では食料と毛布が極度に不足した。「携帯電話も固定電話も通じず、車で直接出向くしかなかった」
 県総合防災情報システムは、町職員が端末機器に情報を入力すれば専用の有線回線で惨状が県に伝わるはずだった。町役場が停電し、使えなかったらしい。
 システムを補完する県防災行政無線網によるファクスは自家発電で使える想定だったが、これも作動しなかった。震災から6年を迎えるが、町はいまだ詳しい原因を把握していない。
 県が当時広報した市町村別の被害状況から、町が孤絶していたことが分かる。13日午後6時51分現在の発表は死者・行方不明者、避難者数など全項目で、山元町だけ具体的な記載がなかった。
<来てすぐに去る>
 地元の消防関係者には苦い記憶がある。
 亘理地区消防本部によると、兵庫県の緊急消防援助隊約250人が13日午後、山元町に入り、14日早朝から本格的に活動を開始。その直後の午前7時40分ごろ、県庁にあった援助隊の調整本部から、山元から約100キロ北の宮城県南三陸町への移動指示が出た。当時、南三陸町の甚大な被害が報道されていた。
 山元町では14日、奈良、愛知両県の部隊計約110人、陸上自衛隊員約690人も活動していた。生存率が急激に低下するとされる発生72時間を目前にした移動。消防本部の消防長として当時指揮を執った星敏夫さん(66)はショックを受けた。「来てすぐ去ってしまう落胆は大きい。指示は県に町の状況が伝わっていなかったことが関係していると思う」と証言する。
<次善策 準備必要>
 「報道と県は三陸に注目し、山元への支援の動きは鈍かった。町の情報発信の在り方にも問題があったのだろう」と言うのは当時、町自主防災会連絡会会長だった岩佐徳義さん(82)。
 岩佐さんは町公民館に設けられた避難所の運営に携わり、隣の役場の様子も伝わってきた。「役場職員と住民はパニック状態だったが、通信手段が使えないときの次善の策の準備は重要だ」とみる。
 斎藤俊夫町長は「職員の数が限られ、全員が目の前の対応に忙殺されていた」と釈明する。ある役場関係者は「通信手段を失った場合、地域防災計画では代替手段の確保に努めると定めていた」と指摘。「震災直後は計画が頭に入っていなかった」と打ち明ける。(亘理支局・安達孝太郎)

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