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Channel: 山と土と樹を好きな漁師 ー「佐々木公哉のブログ」
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 明治29年の大海嘯の年に生まれ、昭和8年の津波の年に37歳で亡くなった宮沢賢治 ~ 「雨にも負けず」 最近、この詩がやけに頭をよぎり、胸を突き、また励まされます。

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僕は、岩手の詩人、宮沢賢治の大好きです。
彼は、多くの、童話、詩の作品を残しています。

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実は、賢治が生まれたのは、明治29年の年です。
生誕の約2ヶ月前である6月15日に発生した三陸地震大海嘯(大津波)による震災が、三陸沿岸に多くの爪痕を残した中での誕生であったのです。
 また誕生から5日目の同年8月31日には
秋田県東部を震源とする陸羽地震が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡稗貫郡地域(現在の花巻市の内陸部)に大きな被害をもたらしたのです。この地は、賢治が生まれた土地です。

 この一連の震災の際に、母・イチは賢治を収容したエジコ(乳幼児を入れ守る籠)を両手でかかえながら上体をおおって念仏を唱えていたといいいます。
 
 賢治は、少なからず自分が生まれた時のこの大惨事を母親から聴いて、育ちったと僕は思います。


そして、また彼の死は、昭和8年です。この年もまた、昭和8年3月3日の大津波が三陸沿岸を襲っています。9月21日に享年37。つまり、短い人生の中で、生まれた時、亡くなる時と大地震と津波が岩手沿岸部を襲っています。
  誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感ずると、賢治の叔父の宮澤清六は指摘しています。
地震直後に詩人の大木実1913年-1996年)へ宛てた見舞いの礼状
「岩手の海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いています。

きっと、賢治はその岩手の海が見たかったのでしょう。
(1925年)大正14年1月7日に、田野畑村を訪れています。
(田野畑村は、昭和59年に三陸鉄道で全国と鉄路で結ばれました。それまでは、交通の便が悪く、「陸の孤島」、「岩手のチベット」などといわれていた、とても不便な地であったのです。だから、陸路はなく、この羅賀丸が大きな交通手段だったのです)
 三陸地方を訪れた宮沢賢治が貨客船の「羅賀丸」でこの地から、宮古に向かった時の三つの作品を残しています。
<発動機船一と三>はカムパネルラ田野畑駅の東側に詩碑があります。
また、
<発動機船二>はカルボナード島越に詩碑が有ります。

そして、2011年3月11日東日本大震災が発生。

田野畑駅は敷地まで波は来ましたが、駅舎も歌碑も無事です。
↓↓カムパネルラ田野畑駅
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しかし、島越駅は、壊滅的な被害でその姿が全くありません。しかし、賢治の歌碑だけは、傷が着いたものの、シッカリ残っています。僕はその歌碑を見た時、奇跡だと思いました。
まるで、賢治の魂がこの碑を守ったとような感じがしたのです。

↓↓震災直後の島越駅。(賢治に歌碑は右に黒く見えています。倒れなかったのです。)
イメージ 1

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 [発動機船 第二]  宮沢賢治
船長は一人の手下を従へて
手を腰にあて
たうたうたうたう尖ったくらいラッパを吹く
さっき一点赤いあかりをふってゐた
その崖上の望楼にむかひ
さながら挑戦の姿勢をとって
つゞけて鉛のラッパを吹き
たうたうたうたう

いきなり崖のま下から
一隻伝馬がすべってくる
船長はぴたとラッパをとめ
そこらの水はゆらゆらゆれて
何かをかしな燐光を出し
近づいて来る伝馬には
木ぼりのやうな巨きな人が
十人ちかく乗ってゐる

たちまち船は櫓をおさめ
そこらの波をゆらゆら燃した
たうたうこっちにつきあたる
へさきの二人が両手を添へて
鉛いろした樽を出す
こっちは三人 それをかゝへて甲板にとり
も一つそれをかゝえてとれば
向ふの残りの九人の影は
もうほんものの石彫のやう
じっとうごかず座ってゐた
どこを見るのかわからない
船長は銀貨をわたし
エンヂンはまたぽつぽつ云ふ
沖はいちめんまっ白で
シリウスの上では
一つの氷雪がしづかに溶け
水平線のま上では
乱積雲の一むらが
水の向ふのかなしみを
わづかに甘く咀嚼する

(1925年)大正14年1月7日宮古に向かった時の三つの作品の内の一篇です 五十行の作品ですが宮沢清六氏のご承諾をえて一部を省略しています。

「もうあたりは夜になっているようですが、船から見える陸地は、険しい断崖です。そこに不意に伝馬船が現れて、こっちの船の船長との間で、何かやりとりをします。
 「いったい何があるのか」と、好奇心を持って賢治が見まもっているようすが、伝わってきます」

この駅舎の残骸や詩碑は、ジオパーク的に保存されるはずです。
この地がどういうふうになるのか・・?まだ、わかりませんが・・。
多分、このまま、残されると思います。

↓↓津波前の島越駅前
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↓↓3,11直後。駅周辺の画像。
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そして、やはり賢治と言えば、この作品ですね。
僕は、若い時からこの詩を胸に生きて来たきがします。とても、賢治が願ったようなデクノボウにはなれないし、叶わないのですが・・。
でも、3.11から、2年。
最近、この詩がやけに頭をよぎり、胸を突き、また励まされもします。

「雨にも負けず」  宮沢賢治

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち

慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず

野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしは
なりたい

(1931年)の作品です。

「雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ、丈夫なからだをもち
慾はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている・・・・・。

みんなにでくのぼーと呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず、そういうものに
わたしはなりたい。」

郷土岩手に基づいた創作を行い、作品中に登場する架空の理想郷に岩手をモチーフとしてイーハトーブ(Ihatov、イーハトヴorイーハトーヴォ(Ihatovo)等とも)と名づけたことでも分かるように・・・・・・。

「愛郷心のある、自然の摂理を大事にし、おおくの人に愛を送りつづけた」

賢治の思想や生き方こそ、見なおして考えるべきだと想うのです。

この詩を読んで。僕は・・・。
今、震災で不安だらけで、辛い想いをして、苦しんでいる被災者みんなに必要なものだと、想うのです。



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