昨日、毎晩被災地を祈っていた、大事な西の友のお母さんがお亡くなりになりました。
癌という病は、年齢に関係なく、人の命を奪っていきます。ご冥福を祈ります。 ご冥福を祈ります。 合掌。
癌という病は、年齢に関係なく、人の命を奪っていきます。ご冥福を祈ります。 ご冥福を祈ります。 合掌。
その、訃報を聴き、僕の脳裏の中で、色々な事が頭をよぎりました。
僕の兄弟姉妹は、6人いて、僕は末っ子です。そのため、僕は、母の父親のことしか覚えていません。
僕が生まれた時は、そのおじいさんしか生きていなかったのです。
そのおじいさん。働き者で今回被災した平井賀地区で「大千代(おおちよ)」という屋号で、「網元」をして儲け、その上、炭や鉄道の枕木の海上運搬の事業を行い、集落の人々を多く雇用していた人です。
そのおじいさんは、長男ではなく分家して、一代で事業を立ち上げ、ある程度の財も築き上げたおじいさんです。田野畑村には、初めて自動車を導入して、陸上運送事業まで行って、そこで、亡くなりました。
そのおじいさんも、昭和8年の津波で妻を亡くしました。その後、後妻を娶り、2人の子供を設けています。母は次女で先妻の子供です。
僕は、その祖父の葬儀があったのは昭和30年代後半です。小学生1年生の頃でした。その時分はまだ土葬で、祖父は丸い大きなたる状の棺おけに膝を抱えるような格好で収まり、参列者が土をかぶせたのを、僕は、「おじさんが埋められると泣きじゃくった」という事は、母から聴いています。
僕の兄弟姉妹は、6人いて、僕は末っ子です。そのため、僕は、母の父親のことしか覚えていません。
僕が生まれた時は、そのおじいさんしか生きていなかったのです。
そのおじいさん。働き者で今回被災した平井賀地区で「大千代(おおちよ)」という屋号で、「網元」をして儲け、その上、炭や鉄道の枕木の海上運搬の事業を行い、集落の人々を多く雇用していた人です。
そのおじいさんは、長男ではなく分家して、一代で事業を立ち上げ、ある程度の財も築き上げたおじいさんです。田野畑村には、初めて自動車を導入して、陸上運送事業まで行って、そこで、亡くなりました。
そのおじいさんも、昭和8年の津波で妻を亡くしました。その後、後妻を娶り、2人の子供を設けています。母は次女で先妻の子供です。
僕は、その祖父の葬儀があったのは昭和30年代後半です。小学生1年生の頃でした。その時分はまだ土葬で、祖父は丸い大きなたる状の棺おけに膝を抱えるような格好で収まり、参列者が土をかぶせたのを、僕は、「おじさんが埋められると泣きじゃくった」という事は、母から聴いています。
埋葬されるまでの3~4日ぐらいは、祖父は自分の築き上げた、大きな家の奥座敷に敷かれた布団に寝かされていたのを覚えています。
そのわきでは、集落の人が、集まり、葬儀参列で使う、持ち物の花とか、提灯とか天蓋などを、器用にこしらえていました。
そのわきでは、集落の人が、集まり、葬儀参列で使う、持ち物の花とか、提灯とか天蓋などを、器用にこしらえていました。
田舎の田野畑村では、葬儀屋は頼まないで地域のぐるみで、葬儀を行なって来たのです。それは、10年位前まで、受け継がれて行われきました。
これも、ひとつの大事なコミュニティだと想います。
これも、ひとつの大事なコミュニティだと想います。
何故、それが無くなったのか・・・・?
急激に進む高齢化で、そのような葬儀に必要な、モノを作れる人もいなくなり、集落でやれなくなって来たからです。でも、まだ田舎では地域全体で、その故人を見送る伝統は、今も少しは残ってるように感じます。
東日本大震災では
地球上で最大規模の地震と津波に遭っても、避難者が秩序を保って行動し、礼儀を忘れず振る舞う姿が国内外から称賛されたことは昨日も書きました。
地球上で最大規模の地震と津波に遭っても、避難者が秩序を保って行動し、礼儀を忘れず振る舞う姿が国内外から称賛されたことは昨日も書きました。
昨日とは、別の角度から考えると、直接間接そうした話に接する度に、自分の中で納得できる部分が多々あるのです。
田舎の小さな地域集落社会は、人が寄り集まるだけで成立するものではないのです。
そこにある、海や山や川や樹が自然であるのと同様に、人も自然の一部であるという意識がどこかにあるからだと想うのです。
なので、その死も自然のこととして受け入れる度量は、都市より田舎が圧倒的に大きいと思うのです。
そこにある、海や山や川や樹が自然であるのと同様に、人も自然の一部であるという意識がどこかにあるからだと想うのです。
なので、その死も自然のこととして受け入れる度量は、都市より田舎が圧倒的に大きいと思うのです。
自然の中の一部である人
その自然の中で、生まれ、育ち、そこで働き、まるで人々は土地に根を張っているようなるような「田舎の人」の暮らしだと想います。
昨年、首都圏から故人の息子の会社の上司が話していました。
ここの、葬儀は、都会の葬儀とは、違うと・・。「何か、自然と一体となったような人々が、悲しみをわかちあい、共に死者を、自然界に帰るかのような、ないか迫力のようなもを感じます。」と話していました。
その自然の中で、生まれ、育ち、そこで働き、まるで人々は土地に根を張っているようなるような「田舎の人」の暮らしだと想います。
昨年、首都圏から故人の息子の会社の上司が話していました。
ここの、葬儀は、都会の葬儀とは、違うと・・。「何か、自然と一体となったような人々が、悲しみをわかちあい、共に死者を、自然界に帰るかのような、ないか迫力のようなもを感じます。」と話していました。
いつか、都会の葬儀に行った時があります。僕は、「違和感」を感じました。葬儀屋というプロが手慣れた司会進行であまりにもスムーズに手際よく葬儀は進み、あっけとられてしまった記憶があります。
解剖学者の養老孟司さんの弁を借りれば、「現代住宅は、人の死をイメージしていない・・・。
死が日常から切り離された「都会の人」の生活は、それはそれで快適にせよ、自然の一部としての人間の生の「迫力」は感じられない」と言っています。
海とともに生きる人の「迫力」を、強烈に感じさせる言葉だろうとおもいます。
今や国際用語にまでなってる「てんでんこ」。
あの「釜石市の奇跡」です。
以前、ブログ記事にしたことがあります。
「釜石の奇跡」世界の教訓に。政府と世銀発表へ 48年ぶりに日本で開かれる国際通貨基金(IMF)・世銀総会の関連イベント会合を通じて世界に発信、防災に活用してもらう。 2012/10/1(月) 午前 6:51
http://blogs.yahoo.co.jp/sasaootako/61825530.html【東日本大震災後、各地で「防災」への意識が高まる中、あの震災の“貴重な体験”として語り継がれている子どもたちがいた。】

全員元気に元気に学校生活を送っている釜石小学校の子供たち・・。

三陸は、津波が何度も襲っています。
昔から、色々な教育がなされてきました。僕人身も、子供頃から親の話を聴いたり、学校でも必ず、年に2回は、「津波避難訓練」を繰り返してきました。
昔から、色々な教育がなされてきました。僕人身も、子供頃から親の話を聴いたり、学校でも必ず、年に2回は、「津波避難訓練」を繰り返してきました。
これは、三陸沿岸ではどこも同じような感じだと思います。
震災で全国に知れわたり、世界でもメディアが大きく取り上げた三陸の先人の教えです。

津波が来たら、てんでんばらばらに高台に逃げろ-という趣旨は、たとえ親であれ子であれ親類縁者であれ「人に構うな」という厳しい教えでもあります。
都会の方には失礼ですが・・。でも、是非真剣に考えて欲しいことなのです。
そうした行動が許される人間関係は、「都会の人」が思い及ばないほど濃厚に違いないとおもうのです。発災直後の被災者の様子が、国内外から称賛されたのは、逆に言えば世界中が失いつつあるものを、そこに見いだしたからではないでしょうか。僕はそう解釈しています。
がれきの処理や高台移転、住宅復興、地盤沈下、道路や港、鉄道の復興など、ハード面の遅れに泣かされ通しの被災地。
「遅くて進まない復興」ではありますが、このノウハウは、将来、起きると言われている、都市直下、東南海トラフ。
日本人が得る財産はカネやモノには代え難いものもあると僕は思うのです。
この、復興のプロセスも、甚大な被害記録と共に、大事な教訓となると確信します。
そのことに日本全体が気づけば、政治の混乱も、復興予算の流用や乱用も、がれき処理をめぐるあつれきや風評も解消に向かうはずだと信じています。
この、復興のプロセスも、甚大な被害記録と共に、大事な教訓となると確信します。
そのことに日本全体が気づけば、政治の混乱も、復興予算の流用や乱用も、がれき処理をめぐるあつれきや風評も解消に向かうはずだと信じています。
この前記した、「日本の品格」、「武士道」から学ぶ、智恵と行動力。
今この日本が試されて事であることはないかと想うのです。