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Channel: 山と土と樹を好きな漁師 ー「佐々木公哉のブログ」
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アーカイブ (再掲)【東日本大震災 「顔が水より冷たく…」被災児童が日記】でも見つかったおかげで火葬もできるし、お父さんをさわることができた。お父さんの体は水を飲んだのか胸がふくらんでいるだけだ。

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【アーカイブ東日本大震災】
ー連載 7回目 明日につづく
 東日本大震災があり、道路、鉄道などライフラインは今も工事をしています。そのくらい復興が遅れているのが現実です。
さて、震災から約一月経過してご遺体の収容も進んできていた頃です。しかし、火葬場も流されたために、ご遺体があまりに多くて、火葬も出来ない状況です。棺桶も間に合わないのです。亡くなって一月以上が経過して、遺体の損傷がひどくなり、身元不明の人は後で、引き上げられるように土葬もしたのです。

こんな中で、2011年4月4日山田町の被災児童が日記が毎日新聞で報道されました。全国に大きな衝撃を与える日記でした。
タイムラグはありましたが、僕はブログにアップしたのです。

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再掲)【東日本大震災 「顔が水より冷たく…」被災児童が日記】
「山と土と樹を好きな漁師」 2011/4/26(火) 午前 7:13
http://blogs.yahoo.co.jp/sasaootako/60537911.html
↓↓全国から寄せられた激励メッセージへの返事を書く箱石佑太君(左手前)
=岩手県山田町の町立大沢小で2011年4月4日、篠口純子撮影

「お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました」。
 巨大地震と大津波が東日本を襲ったあの日、子供たちは何を見、その後をどう生きたのか。岩手県山田町の町立大沢小学校を3月に卒業した箱石佑太君(12)が毎日小学生新聞に寄せた体験日記には震災と向き合う姿が率直につづられていた。
【被災地で尋ねました】いま、あなたの宝物は何ですか?
 ◇3月11日
 卒業式の歌の練習をしていました。とてもゆれの大きい地震が来ました。最初は単なる地震だと思っていました。大津波警報が出ても、どうせこないと思っていました。来たとしても10センチメートル程度の津波だと思っていました。全然違いました。ぼくが見たのは、国道45号線を水とがれきが流れているところです。お母さんとお父さんが津波が来る前に大沢小に来ているところは見ました。だけどその後、お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。お父さんのことが不安でした。車を運転しながら津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました。
 ◇3月18日
 津波から1週間。お母さんは、もうこんなに日がたっているのに、まだお父さんが見えないとあきらめていました。じいやんは泣いて「家も頑張って建てるし、おまえたちだってしっかり学校にいかせられるように頑張るから、お父さんがもしだめだとしても頑張るからな」と言っていました。
 ◇3月23日
 卒業式でした。「ありがとう」の歌を歌っている時、お父さんに「お父さん、お父さんのおかげで卒業できたよ。ありがとう」と頭の中で言いました。そしたらなぜか、声がふるえて涙が少し出てきました。その夜、こんな夢を見ました。お母さんとお父さんが宮古のスーパーマーケットから帰ってきた夢でした。
 ◇3月25日
 親せきの人の携帯に電話がかかってきました。内容は、お父さんらしき人が消防署の方で見つかったということでした。急いで行ってみると、口を開けて横たわっていたお父さんの姿でした。ねえちゃんは泣き叫び、お母さんは声も出ず、弟は親せきの人にくっついていました。顔をさわってみると、水より冷たくなっていました。
 ぼくは「何でもどったんだよ」と何度も何度も頭の中で言いました。「おれがくよくよしてどうすんだ」と自分に言いました。でも、言えば言うほど目がうるんでくるばかりです。お父さんの身に付けていたチタン、東京で買った足のお守りや結婚指輪、携帯。そして驚いたのが時計が動いていたことです。お父さんの息が絶えた時も、津波に飲み込まれている時も、ずっと。お父さんの時計は今はぼくのものになっている。ぼくがその時計をなくしたりすることは一生ないだろう。
 ◇3月26~27日
 見つかった時のお父さんの顔。まだ頭のどこかで見なきゃよかったと。でも見つかったおかげで火葬もできるし、お父さんをさわることができた。お父さんの体は水を飲んだのか胸がふくらんでいるだけだ。やっぱり見つかってよかった。

 ◇3月28日
 きょうは火葬の日。ぼくとねえちゃんとお母さんとけいじろうは、手紙を書いて、お父さんと一緒に入れてやりました。拝んでいる時ぼくは「箱石家は頑張って継ぐからまかせて」と言いました。お墓に骨を埋めるまで、ぼくに骨を持たせてくれました。骨をうめてホッとしました。
 ◇4月7日
 きょうは、ありがたいと心から言える日でした。お父さんとぼくたちの記事を見て、お父さんが東京マラソンを走った時の写真とお手紙を新聞の人が持ってきてくれました。ぼくたち家族に贈る言葉や、さらにはぼくに贈る言葉の手紙もありました。やっぱりお父さんはすごい。今日は本当にありがたい日だ。
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 箱石君は25日、155人の仲間と一緒に町立山田中学校に入学した。日記は、大沢小の子供たちが復興に立ち向かう様子を紹介する「大沢からの報告」として毎日小学生新聞に11日に掲載。「何回も読み、涙が止まりません。皆様が少しずつでも前に進める日がくることを願っております」(2人の子を持つ東京都北区の女性)とのメールが届くなど大きな反響を呼んだ。「大沢からの報告」は同紙で随時掲載され、次回は5月11日の予定。

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泣けてきます。 そうなんです。今回の津浪は第一波よりも2~3波の方が高いために・・。
一旦、避難しても、このような、ケースで戻り、津波に飲み込まれたケースが実に多いのです。
田野畑村でも、このようなケースでなくなった人が多くいます。
 山田大沢地区は、ほとんど壊滅的です。牡蠣、ホタテ漁師が多い街です。
高台の数件が残っただけで、ほとんど街が消滅した・・家も作業場も舟も・・。失い・。そして・・。家族までも・・。言葉も出てきません。

↓↓これは、友人の安否を確認して行ったとき(3.22~2.23)の山田町の画像です
イメージ 1

この、男の子の場合、お母さんは生きていますが・・・・・・。
今回の東日本大震災での、両親を亡くした遺児数は317人(2011/4/10現在)にのぼっています。 とても、心がいたみますねーー。

このような、日記。俺のブログの記事なんかよりも、ずっと、人に訴える力があります。

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