【「神も仏もない」ー震災は天がやったことで避けられず、恨むことはできない。戦争は人が起こすもの。絶対に止められるし、絶対に許されない】
僕も、震災直後の光景を見てまず、「神も仏もない」と思いました。
そして、戦争は知りませんが「戦禍というものはこんなだったのではないだろうが」と感じました。ホントなのかウソなのか・・。時間を必要としました。



ましてや、戦争を知ってる釜石市鵜住居町の和田乙子(おとこ)さん(85)は、戦争と震災の光景が重なったと思います。
終戦間近の、釜石の艦砲撃破は激しかったのです。何故なら、鉄を製鉄していたからです。
今でも、釜石にはその傷跡が随所に残っています。
今でも、釜石にはその傷跡が随所に残っています。
艦砲射撃を受けた後の釜石市内。
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最初の射撃があった昭和20年7月14日。
和田乙子(おとこ)さん(85)は大槌高等女学校1年の和田さんは日本製鉄(現・新日鉄住金)釜石製鉄所の工場にいた。学徒動員で駆り出され、れんがを運んでいた。
昼すぎ、サイレンが響いた。同級生ら約50人と近くのトンネルに逃げ込んだ。
高さ約2メートルの空間。太平洋沖からの砲撃が続いた2時間以上、死がそばにあった。
ドガン、ドガン、ドガン。
ごう音が至る所を襲う。
今落ちるぞ。今死ぬのか。
恐怖が全身を貫き続けた。
砲撃がやみ、トンネルを出た。直撃を受けた防空壕(ごう)から死体が担架で運び出された。歩いて鵜住居の自宅に向かう途中、地面に手や足が落ちていた。
2度の攻撃で降り注いだ砲弾は5340発以上。死者は750人以上、3000軒近くが全焼した。
釜石の艦砲(アメリカ軍撮影)
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和田乙子(おとこ)さん(85)は大槌高等女学校1年の和田さんは日本製鉄(現・新日鉄住金)釜石製鉄所の工場にいた。学徒動員で駆り出され、れんがを運んでいた。
昼すぎ、サイレンが響いた。同級生ら約50人と近くのトンネルに逃げ込んだ。
高さ約2メートルの空間。太平洋沖からの砲撃が続いた2時間以上、死がそばにあった。
ドガン、ドガン、ドガン。
ごう音が至る所を襲う。
今落ちるぞ。今死ぬのか。
恐怖が全身を貫き続けた。
砲撃がやみ、トンネルを出た。直撃を受けた防空壕(ごう)から死体が担架で運び出された。歩いて鵜住居の自宅に向かう途中、地面に手や足が落ちていた。
2度の攻撃で降り注いだ砲弾は5340発以上。死者は750人以上、3000軒近くが全焼した。
釜石の艦砲(アメリカ軍撮影)


戦災から長い歳月を経て、釜石では震災が再び多くの命をさらった。目に映る惨状は似ているが、悲劇の本質の意味合いは違うと感じている。
「震災は天がやったことで避けられず、恨むことはできない。戦争は人が起こすもの。絶対に止められるし、絶対に許されない」
釜石医師会の事務員を勤め上げた後、和田さんは震災前まで約20年間、市内外の小中高校で戦争体験の語り部を続けた。「青春を奪われたあのころと同年代の若者を戦地に送りたくない」。戦争のむごたらしさと愚かさを説いた。
語り部として訪ねた学校の子どもたちの感想文を基に反戦の本を出そうと考えていた。だが自宅で大切にしていた段ボール約10箱分の原稿を津波に奪われてしまった。
自然が相手の震災は諦めがついても、戦争への思いをつづった感想文を失ったことは諦められない。「悔しくて死にきれない」と無念がる。
語り部として訪ねた学校の子どもたちの感想文を基に反戦の本を出そうと考えていた。だが自宅で大切にしていた段ボール約10箱分の原稿を津波に奪われてしまった。
自然が相手の震災は諦めがついても、戦争への思いをつづった感想文を失ったことは諦められない。「悔しくて死にきれない」と無念がる。
最近、戦後70年の記憶の継承が危ぶまれる。声を荒らげる。
戦後70年の反省に立った平和憲法が安部政権の政治によって、ドンドン戦前の雰囲気に似てきたと心を痛めている。
戦後70年の反省に立った平和憲法が安部政権の政治によって、ドンドン戦前の雰囲気に似てきたと心を痛めている。
「あの光景が頭から消えないんだから、私の中で戦争は終わっていない。忘れてほしくない。泣きたくなるよ」
二つの大きな災い。多くの死が刻んだ生の尊さ。風化にあらがい、今再び、悪政に叫びを重ている。
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【<祈りと震災> 生の尊さ忘れないで】
河北新報 2015年4月24日
釜石艦砲射撃から自分を救ってくれたトンネルで当時を語る和田さん。多数の命を奪った戦災と震災で異なる意味をかみしめる=釜石市
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「神も仏もない」。がれきで覆われた集落を見て、子どものように泣きじゃくった。
東日本大震災から100日後、和田乙子(おとこ)さん(85)は、釜石市鵜住居町の自宅跡にやっと立つことができた。
津波で町内会の仲間ら200人以上を失った。自宅を流されたが、震災発生時は市内の高齢者専用アパートにいて難を免れた。心の整理をつけ、自宅があった場所を見に行くのに3カ月以上かかった。
「あの時と同じ」。1945年の光景が重なった。太平洋戦争末期、米英連合軍艦隊の艦砲射撃を2度受け、廃虚と化した釜石の市街地だ。
画像:釜石艦砲射撃から自分を救ってくれたトンネルで当時を語る和田さん。多数の命を奪った戦災と震災で異なる意味をかみしめる=釜石市
ーー以下略ーー
http://www.kahoku.co.jp/tohokune…/201504/20150424_35024.html
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【<祈りと震災> 生の尊さ忘れないで】
河北新報 2015年4月24日
釜石艦砲射撃から自分を救ってくれたトンネルで当時を語る和田さん。多数の命を奪った戦災と震災で異なる意味をかみしめる=釜石市

「神も仏もない」。がれきで覆われた集落を見て、子どものように泣きじゃくった。
東日本大震災から100日後、和田乙子(おとこ)さん(85)は、釜石市鵜住居町の自宅跡にやっと立つことができた。
津波で町内会の仲間ら200人以上を失った。自宅を流されたが、震災発生時は市内の高齢者専用アパートにいて難を免れた。心の整理をつけ、自宅があった場所を見に行くのに3カ月以上かかった。
「あの時と同じ」。1945年の光景が重なった。太平洋戦争末期、米英連合軍艦隊の艦砲射撃を2度受け、廃虚と化した釜石の市街地だ。
画像:釜石艦砲射撃から自分を救ってくれたトンネルで当時を語る和田さん。多数の命を奪った戦災と震災で異なる意味をかみしめる=釜石市
ーー以下略ーー
http://www.kahoku.co.jp/tohokune…/201504/20150424_35024.html